昼餉に対する疑問符

投稿者: Takahashi Daigo

不思議な話である。選んでいるわけではないのに。

何が起こっているというのか。目の前にはまた8番の味噌らーめんがある。もはや頼んだ記憶すらない。当たり前のように目の前にある”それ”を、私は黙々と食べ進める。胃を満たすためだけの行為に何の疑問も抱かない。おかしな話だ。小さい頃は”それ”が食べたいという理由で選んでいた駄菓子を、今では”塩辛いもの”とだけの認識で選ぶ。日本の繊細な食文化とやらはどうにも私の心に響いていないらしい。とにもかくにも、決まった店舗で食べる決まった味。たまに薄いが、それはそれとして。何の疑問も抱かない―――、と最初に言ったが、それは「胃を満たすためだけの行為」に対してだ。欲求に関心のない私にも疑問はある。これはきっと日本国民、いや、全人類の疑問にもなりえるだろう。
”なぜ私たちは8番らーめんを選んでしまうのか”」である。
―――私には主語を大きく語る癖がある。


決定は出来る。納得は?

 まず第一に。「”8番らーめんは美味しいのか?”」についてだ。端的に言おう。100点が満点ならおそらく75点くらい。店舗ごとに誤差はあるだろうがそれくらいだろう。別に、選んでしまったことを後悔しているわけではない。自分の味覚は8番らーめんの味を美味しい味だと記憶している。それが何を表すかというと、「美味しいから選択肢に含まれている。」という一つ目の可能性だ。人は美味しいものには目がない。私はそうでもなかった。訂正しよう。美味しいものが嫌いな人はいない。美味しかったものの記憶は思っている数倍、人の中に残っているものだ。つまり、「あれが美味しかった、また食べよう」という選択だ。この理論はそこそこ理に適っているとは思う。しかし、前述の通り私は、空腹を満たし午後を乗り切るために食べている。その感情があるからこそ、8番らーめんという選択をしている部分が少しはあるだろうが、これだけで疑問が解決するかと言われれば答えはNOだろう。

 次に選択肢として挙げられる可能性は、「外食先の増加、多様化」ではなかろうか。近年日本の飲食業界の発展は凄まじい。「安い、美味い、早い」とは言うが、私から言わせてみれば安すぎるし美味すぎるし早すぎる。日本国様様だ。サービスと口で言うのは簡単だが、日本人の性格も相まってたかがチェーン店が素晴らしい店になっている。経営者諸君、感謝してくれ。話は逸れたが、この”クオリティを保っている店が数多くある”状態が、逆に選択肢を狭めているのではないかという可能性である。基本的に、どの店にどんな時間に行っても一定の担保があるように感じる。ハズレといったものを引く確率が圧倒的に少ない。裏を返せば、「どれを食べても一緒なのではなかろうか?」といった考えになっているのだ。米と麺は違うだろと思ったこれを読んでいる貴方。その通りだ。これは私の横暴な感情だ。

 三つ目は単純だ。「選択が面倒くさい」という選択肢。私は恐らくこれに当てはまる。皆さんも経験したことがあるのではないだろうか。「お昼どうしよう」「近くの”いつも”行っているあそこでいいか
そういうことだ。我々は選択しているようで、操られていたのだ!―――冗談はさておき。多くの人がこれに当てはまり、同じ店を選ばされているのではないかと考えている。極端な話、1年には365回昼食がある。365回別々のものを食べることなど、この忙しい日本人に可能なのだろうか?もしそんなことが出来ている人がいるなら是非ともご相伴に与りたい。二つ目に挙げた通り、どの店に行って何を食べても一定以上のクオリティが保証されている環境で、毎日毎日何を食べようか頭を悩ませる必要がないのだ。なんて幸せな国なんだ。同じ店に行こうと違う味が楽しめる。気分によってはセットまで。そんな環境でわざわざ他の店を選ぶ必要なんてあるのだろうか?とんでもない持論を展開している。勢いに任せた文章を許していただきたい。


 チェーン店として、北陸に数多くの店舗を構える8番らーめん。私たちはあまりにも、その味に慣れ親しみすぎた。”いつも”の店が8番らーめんになってしまっていること。どの店舗に行っても変わらぬ味であり続けること。それこそが私たちが「8番らーめんを選択してしまう」理由なのではないだろうか。
これで少しでもキャッチコピーへのアンサーになると嬉しく思う。まるで8番らーめんの回し者だ。もうそれでいいかもしれない。


 今日も朝から現場へ向かう。とても寒くなってきて雪まで降ってくる始末。無事に仕事を終え、満足感に浸ってはいるが、空腹は否が応でも追いついてくる。ふと、同僚の目に留まる例の店。考えるまでもないらしい。
私は今日も味噌らーめんを食べる。ここまでくると本当にそう思う。

なんでやろ8番。